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【前夜】「日本名門酒会」の発足

前夜

昭和48年(1973年)、第1次オイルショック。高度経済成長にもかげりが見えはじめたこの頃をピークに、日本酒全体の出荷量は遂に減少へと転じます。そして高知県では中内力知事が誕生した昭和50年(1975年)、東京の中堅酒類問屋(株)岡永が後の地酒ブームの先駆けとなる「日本名門酒会」を立ち上げます。既に「東の『新政』、西の『司牡丹』」を車の両輪として扱い、東京市場において成功を収めていた事実もあり、以下の12の銘柄を選抜し、「日本名門酒会」はスタートを切ることになるのです。青森「八鶴」、秋田「新政」、山形「大山」、福島「栄川」、新潟「越の誉」、茨城「一人娘」、岐阜「久寿玉」、長野「真澄」、京都「月の桂」、広島「酔心」、高知「司牡丹」、熊本「美少年」の12銘柄でした。 当時の日本酒は、ナショナルブランドの大量生産「三増酒」が全盛の時代。地方で高品質な日本酒を造り続けている心ある蔵元の名酒と、本物の日本酒を飲みたいと思っている日本酒ファンとは、なかなか現実の市場で出会うことはできなかったのです。そこに流通業者として社会的な使命を感じた(株)岡永の社長飯田博(故人)氏は、全国の名だたる蔵元を訪問し、ジックリ利き酒し、酒造りも見学し、社長や杜氏の話も聴き、地方の風土にも実際に触れる中で、12の銘柄を選抜したのでした。そして、それまでの量販店への納入やナショナルブランド食品の特約の権利も返上し、背水の陣で臨むのです。その頃の飯田氏の言葉に、「銀が泣いている」というものがあります。これは不世出の棋聖・坂田三吉の言葉ですが、「銀が泣いているが如く、日本の各地で美酒名酒が人に知られぬまま泣いている。」という意味でありました。この飯田氏の熱い念いと「日本名門酒会」の地道な活動がその後の地酒ブームを生み、牽引したといっても過言ではなく、さらに近年の純米・純米吟醸酒人気や海外の日本酒人気についても、この時の「日本名門酒会」の発足がなければ、あり得なかったと言えるでしょう。

 

「日本名門酒会」とは、「良い酒を 佳い人に」をスローガンに、全国約80社の蔵元が丹精こめて造った良質の日本酒を、全国2,000店あまりの酒販店を通して流通させてきた地酒の流通組織です。「大量生産」「大量流通」「大量消費」という社会背景の中で、「良質な日本酒」が市場から消えようとしていた昭和50年(1975年)、東京の中堅酒類問屋株式会社岡永が、「民族の酒・日本酒の伝統を守り、良質でうまい酒を愛飲家にお届けしよう」という考えから、地方でそうした酒造りをしている蔵元に呼びかけて誕生しました。その活動は、後の「地酒ブーム」の牽引車となったと言われております。現在、本部1社(株式会社岡永)、蔵元約80社、支部(地方問屋)約30社、加盟店(酒販店)約2,000店によって組織され、各会員の自主性を尊重するボランタリー方式で運営されています。

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