司牡丹酒造、竹村家の屋号は「黒金屋」と言い、慶長8年(1603年)より佐川の地にて酒造りを営んでいました。一方、坂本龍馬の本家「才谷屋」も、質商・諸品売買などと併せて酒造りを営んでいました。「才谷屋文書」によると、才谷屋と佐川の酒屋との間には頻繁な交流があったことが記されており、竹村家には天保2年(1831年)、黒金屋弥三右衛門が才谷屋助十郎から酒林壱軒(酒造りの株一軒分)を買ったという書状が残っています。
竹村本家所蔵の龍馬の手紙
また、黒金屋弥三右衛門の母親は才谷屋から嫁いでおり、一方、才谷屋八郎兵衛の母親は家系図によると「竹村氏の女」(黒金屋竹村家との血縁は不明)となっています。つまり「才谷屋」と「黒金屋」は姻戚関係があった可能性があるということなのです。さらに極めつけは、竹村本家には坂本龍馬の手紙(慶応2年3月8日、甥の高松太郎あて)も所蔵されており、代々受け継がれているのです。そして、佐川の地は維新の志士を数多く輩出いていること、龍馬の脱藩の道に当たっていること等を重ね合わせれば、「才谷屋」と「黒金屋」、坂本龍馬と司牡丹の関係は、因縁浅からぬものがあるといえるでしょう。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中にも登場し、司牡丹は龍馬が飲んだ酒として知られていますが、実際は龍馬の時代には司牡丹の酒名はまだ付けられていませんでした。もちろん酒名はまだでも黒金屋の酒自体は存在していた訳であり、前記の通りの因縁の深さから考えれば、当然龍馬もこの酒を飲んでいたことでしょう。
竹村本家所蔵の龍馬の手紙
「植物の父」「世界のマキノ」と称された日本植物学会の巨人・牧野富太郎博士の生家は、屋号を「岸屋」と称し、代々佐川の地で酒造りを営んでいました。明治の中頃、牧野博士はこの酒蔵を人手に譲り上京し、植物研究に生涯を捧げます。その後、この酒蔵は司牡丹酒造に譲られますが、昭和中頃の台風で大半が倒壊し、一棟を残すのみとなっていました。この一棟は、牧野博士の勉強部屋であった建物らしく、長らく「牧野蔵」として町民に親しまれてきましたが、平成16年の連続台風にて残念ながらこれも倒壊してしまいました。
戦後日本復興の立役者、「ワンマン宰相」吉田茂首相もまた、土佐が生んだ偉人でありますが、彼の著書「世界と日本」の中には「味のお国自慢」として以下の文章があります。『先年、はじめて選挙に出ることになって高知へ渡った際、「土佐の酒はまずいから、よい酒を東京から持っていこう」と語ったことがある。これを伝え聞いた選挙区の有志たちから「土佐には自慢の酒がある」と叱られた。なるほど、土佐に着いて飲まされた酒は上等だった。「司牡丹」という名の酒で、以来その酒を愛用している。』 昭和35年、遊説のために来高した吉田元首相は、司牡丹酒造を訪ね、当時取締役会長であった竹村源十郎と快談しました。この時、現会長の竹村維早夫が撮った記念写真と吉田元首相揮毫の色紙は、今も社宝として司牡丹酒造に所蔵されています。
高知出身の女流作家・宮尾登美子さんの作品に、「楊梅(やまもも)の熟れる頃」という小説風・ルポ風エッセイ集があります。その中に「おきみさんと司牡丹」と題する短編がありますが、この話は、毎年10月になると広島から司牡丹にやってくる蔵人の「恒さん」と、同じく司牡丹に働く土佐の女「おきみさん」とのほのかな恋心を描いた作品です。また、映画化、テレビドラマ化もされた話題作「蔵」のあとがきには、司牡丹の酒蔵の雰囲気に憧れ、日本独自の酒造り文化に魅せられて、何十年も前から「蔵」を書こうと企てていたとの記述もあります。
「月刊カドカワ」平成5年1月号の「松任谷由実特集」に、「ユーミンにきく100の質問」というコーナーがあり、その中で「好きなお酒は何ですか。」という質問に対し、松任谷由実さんは、「司牡丹というお酒が好きです。」と答えています。彼女がコンサートなどで高知に泊まる際にはよく訪れる店がありますが、そこでも実際に司牡丹を愛飲されているとのことです。