今から約400年の昔、関ヶ原の合戦直後の慶長8年(1603年)のことです。関ヶ原の勲功により、徳川家康から土佐24万石を賜った山内一豊に伴い、土佐に入国した山内家の首席家老、深尾和泉守重良は佐川1万石を預かることになります。その時、深尾氏に従ってきた商家の中には、酒造りを業とする「御酒屋」の名が見られました。深尾家出入りの御用商人で「名字・帯刀」を許された格式ある酒屋です。この酒屋が、司牡丹酒造の前身であります。以来、佐川の地に伝統正しい酒造りが受け継がれ、大正7年(1918年)、佐川の酒造家が結集して近代企業として株式会社を設立。そして佐川出身の維新の志士、明治新政府の宮内大臣も務めた田中光顕伯爵(坂本龍馬、中岡慎太郎亡き後の陸援隊長)は、この佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ「司牡丹」命名。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」という意味であります。
昭和5年(1930年)、高知県出身で時の総理大臣、浜口雄幸首相から司牡丹に「芳醇無比」の賛辞の一筆が届けられました。これを聞いた司牡丹の名付け親、田中光顕伯爵は「私も何か言葉を添えよう」と一筆をしたため、「空谷と名にはよべども水音も跫音も高く世にとどきけり」「酒の名の牡丹は獅子によりてこそ高くかほらめ千代の世までも」の二首を寄せられます。これは浜口首相の一筆と合わせて表装の上「芳醇無比乃巻」と箱書きまでされた丁重な贈答でありました。
「空谷」は浜口首相の雅号から、「獅子」はライオン宰相の異名から、そして百花の王「牡丹」は百獣の王「獅子」とは切っても切れぬ関係。つまり、「ライオン宰相浜口雄幸の名声と共に、司牡丹はいつまでも酒の王者であろう」という意味なのです。その後、田中伯より手紙が届き、「ずっと気になっていたが、やはり下の七字の<千代の世までも>は<のちの世までも>の方が良いと佐々木信綱博士にも言われたので書き直したい。面倒だが送り返してほしい。」とのこと。間もなく、改めて書き直されたものが再び表装されて届けられました。「酒の名の牡丹は獅子によりてこそ 高くかほらめのちの世までも」これが、現在も社宝として司牡丹酒造に所蔵されている「芳醇無比乃巻」なのです。
芳醇無比乃巻・浜口雄幸首相の手紙
芳醇無比乃巻・田中光顕伯爵の手紙