瀬戸大橋が開通した昭和63年(1988年)、司牡丹は「日本名門酒会」のオリジナル商品(流通ルート限定商品)として、超辛口の純米酒「船中八策」を新発売します。これは、坂本龍馬と最も縁が深い蔵元と言われる司牡丹として、初開発の龍馬関連ブランドであり、明治新政府のあり方について坂本龍馬が船中にて考え出した八つの策から命名された、ロマン漂う逸品です。元々、日本全国の酒が甘口だらけであった時代から、司牡丹を筆頭とした土佐酒は辛口の酒として名を馳せていましたが、この頃の地酒ブームと辛口ブームにより、全国的に辛口酒が増えたため、土佐酒本来の個性もその渦の中に埋没しつつありました。そのことを憂えた(株)岡永の飯田博社長(故人)と司牡丹酒造の竹村維早夫社長(当時・現相談役)は膝を突き合わせて話し合い、それならさらに辛い超辛口を出そうじゃないかと考え、その超辛口酒に熱い念いを託し「船中八策」の名を冠したのでした。
その味わいは、超辛口でありながら極めてなめらかに味わいが膨らみ、さらりとしたキレは抜群で、いまや司牡丹を代表する大人気商品でありますが、新発売当初は、そのあまりに斬新なラベルデザインゆえに、不評の声も少なくありませんでした。菱形の真っ黒いラベルに、大きく派手な蛍光オレンジの「船中八策」の文字・・・。「これは焼酎か?」「あまりにド派手過ぎ!」「センスが悪い!」等の声がいくつも聴こえてきたといいます。しかし、料理と合わせていただくと一層その真価を発揮する抜群にキレの良い美味しさは、徐々に評価を得はじめます。一度美味しさを知った方々はヤミツキになり、するとそのド派手なラベルデザインが、逆に評判になってきたのです。「他にないラベルの斬新さが良い!」「売場でも一番目立つ!」「潔いほど派手なのがいい!」等の声が聴こえはじめ、不評の声はいつしか消えていったといいます。そして今では、日本国内のみならず海外でも多くの方々に愛飲されている、司牡丹最大の看板ブランドとなったのです。
司牡丹酒造、竹村家の屋号は「黒金屋(くろがねや)」。一方、坂本龍馬の本家「才谷屋(さいたにや)」も、質商・諸品売買などと併せて酒造りを営んでいました。「才谷屋文書」によると、「才谷屋」と佐川の酒屋(「黒金屋」)との間には頻繁な交流があったことが記されており、竹村家には天保2年(1831年)、黒金屋弥三右衛門が才谷屋助十郎から酒林壱軒(酒造りの株一軒分)を買ったという書状が残っています。また、黒金屋弥三右衛門の母親は「才谷屋」から嫁いでおり、一方、才谷屋八郎兵衛の母親は家系図によると「竹村氏の女」(黒金屋竹村家との血縁は不明)となっています。つまり、「才谷屋」坂本家と「黒金屋」竹村家は、姻戚関係にあった可能性があるということなのです。さらに極めつけは、竹村本家には坂本龍馬の手紙(慶応2年3月8日、甥の高松太郎あて)も所蔵されており、代々受け継がれているのです。そして、佐川の地は維新の志士を数多く輩出していること、龍馬の脱藩の道に当たっていること等を重ね合わせれば、「才谷屋」と「黒金屋」、坂本龍馬と司牡丹の関係は、因縁浅からぬものがあるといえるでしょう。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中にも登場し、司牡丹は龍馬が飲んだ酒として知られていますが、実際は龍馬の時代には司牡丹の酒名はまだ付けられていませんでした。もちろん酒名はまだでも「黒金屋」の酒自体は存在していた訳であり、前記の通りの因縁の深さから考えれば、当然龍馬もこの酒を飲んでいたことでしょう。
慶応三年六月九日、龍馬は土佐藩船「夕顔丸」の船上にいた。長崎から京都に急ぐ旅であった。同乗者は土佐藩参政後藤象二郎や海援隊士陸奥陽之助、長岡謙吉らである。何のために急ぐのか。風雲告げる京の状勢、一触即発の幕府と薩長の戦いを一大奇策をもって回避させるためである。その奇策とは「大政奉還」、十五代三百年続いた徳川の政権を朝廷にかえし奉る。それ以外に、内戦とそれにつながる外国侵略を防ぐ方法はないという龍馬の案であった。それを土佐藩から一橋慶喜将軍に提案させようとする急ぎ旅であった。
途上、龍馬は、無血革命成就後の新政体のあり方を説く。政治の方法を持たない朝廷のためでもあり、毛利将軍、島津将軍などという旧態依然の体制の成立を未然に防ぐためでもあった。
策は八つ、一言でいえば“天皇をいただいた民主政体(デモクラシー)”の実現である。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局(議会)を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備え官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
続いて外交条約のこと、憲法制定のこと、海軍拡張のこと、防衛のこと、金銭レートのこと、が述べられ、長岡謙吉が文章化する。そしてあとがきで、公明正大の道理に基づき、一大英断を以て天下と更始一新せん、と結ぶ。
この船中八策は「薩土盟約」や「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の綱領「五ヶ条の御誓文」につながるものであるが、抽象的な御誓文に比べるとより具体性のあるものといえる。
しかし、龍馬の願いは維新政府において十分に実現されるものではなかった。貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院するのは、龍馬死後二十三年、明治二十三年のことであった。
●「船中八策」<「坂本龍馬全集(全一巻)」より(監修:平尾道雄 編集・解説:宮地佐一郎 発行所:光風社書店 昭和53年5月30日発行)>
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備え官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜く拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨て他に済時の急務あるなし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並行するも、亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。